愛想ばかりが優先し、その半面で有力な政策を持たない政治家が、駄目政治家の代表だと言えるだろう。そうした駄目政治家は、実は有権者が作っている。
政治家は得票数が少なければ当選しない。その得票のために、立候補者は選挙の前後を通じて、お世話になった者などへのあいさつ回りやお礼の電話をかけることを欠かすことができない。なぜならその候補者に一票を投じた有権者が、もし挨拶が無ければ納得しないからである。しかしそのようなあいさつ回りや電話をかけることには、当たり前だが費用がかかる。結局、そういう費用をかけられる者、言い換えるなら資金を持つものしか当選しにくいという現実が、選挙には少なからずある。
このようにして、「選挙にはとかくお金がかかる」という悲劇が形成されてゆく。極端な場合、「政策は二の次で、挨拶などの愛想が良いかどうかが、選択の基準だ」と嘯く有権者も、決して少なくないはずだ。このような中、立候補者は当選後に、様々な手段によってその要した費用を回収しようとする。その手段の中に利権、すなちわ特定の有権者のために利益誘導することによって、金銭の対価を得るという行動がある。
これらをまとめると、貴族や豪族あるいは名士など、有力な有権者であればあるほど面子が強いから、立候補者に挨拶又は愛想を求めるようになる。そして当選後に立候補者が、その有力有権者の利便を図る。そのような貴族による、貴族のための政治がまかり通る結果となる。
有権者が「政策に感心して、その候補者に投票したのだから、別に挨拶など来なくても構わない」という意識を持たなければ、お金のかかる選挙は永遠に繰り返される。そして浮動票など、有力でない有権者に「どうせ、誰が当選しても変わらない」と感じさせることになる。
それだけではなく、下手をすると、「政治家としての政策案、つまり資質は無いのに、愛想だけは一流だから連続当選する」という、理想とはかけ離れた政治家を再生産する現実をも生みかねない。
歴史と伝統には誇るべき一面がある。しかし他方で、歴史と伝統は貴族政治を生む素地があるという欠点も、充分に認識しなければならない。日本国憲法に言う「民主主義」とは、極論すれば非貴族もしくは貧困層中心主義のことなのである。政治家は名も無き貧困層の家僕であるべきで、決して名士の家僕であってはならない。表面的には投資家や資産家の僚友を装うとしても、その本質は、如何にして投資を道徳的な経営者(商人)の育成に役立たせるかに苦心するようでなければならない。