いま最低賃金法という法律があり、要するに都道府県ごとに一定水準以下の賃金で人を雇ってはならないことが規定されている。一見すると、最低賃金は高いほどよいと思われがちだ。しかし一人当たりの労賃単価を高くすると、職種によっては雇う人数を減らさざるを得ない場合がある。結局は失業者、すなわち無賃者を増やす危険性がある。
そこで最低賃金法を廃止して、むしろ逆に最高賃金法を制定すると良い。すなわち雇用契約によって働く労働者については、賃金に上限を設ける。そうすることにより、如何に優秀な労働者であるとしても、雇用契約である場合は、不当に高い賃金を支払うことを、抑制させることができる。
その結果、その支払われない賃金は余剰資金となるから、その浮いた分を他の労働者を雇う可能性が出てくる。これは労賃を通じての独占禁止的効果を狙ったものだ。要するに収入の格差解消や平準化、もしくは雇用機会の増加に資することは言うまでも無い。
企業は本来、自主規制により自らが「腹八分」を実践すべきで、利益や人材の独占は、自らがこれを放棄しなければならない。そうすることにより、公からの規制、言い換えるなら法規制が不要となるから、税などの国民の公的負担は抑制又は減少するのである。
逆に言えば、人材の増幅と一極集中は公的負担率を高め、そしてこれまで国民に損をさせていた側面があることを指摘しなければならない。
ある人が優秀で、もし例えば数億円もの年収を得たければ、それは報酬によって得れば済むことだ。少なくとも雇用契約の労賃の場合は、最低水準を定めるよりもむしろ最高水準を設けるほうが、競争を促進する上での実際上の効果が大きいと言うべきだろう。
2011年5月16日月曜日
結婚紹介所公設案
いま職業紹介についてはハローワークが公設されている。これは国民各自の収入に関する事柄であり、いわば貨幣から経済生活を支える側面がある。
他方で、人間は精神生活についてもこれを軽視することができない。そういう意味で、結婚についても、何らかの形で公が関与することが求められている。
いま日本では、収入はあるのに、結婚相手との出会いに恵まれない者が少なくない。それで婚姻率の低下や晩婚化の現象が見られる結果、少子化が問題視されている。
もちろんこれには、年金など、親の収入に頼ることの出来る世代の増加という、ある意味恵まれた人たちの存在に拠ることも指摘できる。しかし巷で噂の「出会い系サイト」の隆盛をみても分かるとおり、結婚相手を探しているのに見つからないという人たちが増えたのも事実だろう。
これらに対し、公的には目下放置状態にある。
この事態を改め、公共職業紹介所内に結婚紹介コーナーを併設すると良い。そうすれば、職業を探す振りをして結婚相手を探したり、あるいは結婚相手を探す振りをして実は職業紹介を受けるなど、利用者の一元化を実現させることができる。定職に付くことと所帯を持つこととは、相互に深い関係にあるからだ。
職業紹介などの、いわば「お金さえあれば、人は幸せだ」というのは、物事の一面しか捉えていないと言わざるを得ない。夫婦には相互に精神的に支えあうという大切な点がある。そうしてこそ、逆に言えば職業に対する意欲も増す。
以上を総合すると、結婚は決して一部の国民の趣味的あるいは特殊な事情とは言えず、職務に対する意欲と関わる以上、その促進は全国民的な課題だと言える。それで 日本国憲法の条文にも「婚姻」の文字がある。
ハローワークなどの施設内における結婚相手募集欄で、相手に対する希望や、応募期限などの各種条件を見ることがもし出来れば、独身者にとって大きな楽しみとなる。
他方で、人間は精神生活についてもこれを軽視することができない。そういう意味で、結婚についても、何らかの形で公が関与することが求められている。
いま日本では、収入はあるのに、結婚相手との出会いに恵まれない者が少なくない。それで婚姻率の低下や晩婚化の現象が見られる結果、少子化が問題視されている。
もちろんこれには、年金など、親の収入に頼ることの出来る世代の増加という、ある意味恵まれた人たちの存在に拠ることも指摘できる。しかし巷で噂の「出会い系サイト」の隆盛をみても分かるとおり、結婚相手を探しているのに見つからないという人たちが増えたのも事実だろう。
これらに対し、公的には目下放置状態にある。
この事態を改め、公共職業紹介所内に結婚紹介コーナーを併設すると良い。そうすれば、職業を探す振りをして結婚相手を探したり、あるいは結婚相手を探す振りをして実は職業紹介を受けるなど、利用者の一元化を実現させることができる。定職に付くことと所帯を持つこととは、相互に深い関係にあるからだ。
職業紹介などの、いわば「お金さえあれば、人は幸せだ」というのは、物事の一面しか捉えていないと言わざるを得ない。夫婦には相互に精神的に支えあうという大切な点がある。そうしてこそ、逆に言えば職業に対する意欲も増す。
以上を総合すると、結婚は決して一部の国民の趣味的あるいは特殊な事情とは言えず、職務に対する意欲と関わる以上、その促進は全国民的な課題だと言える。それで 日本国憲法の条文にも「婚姻」の文字がある。
ハローワークなどの施設内における結婚相手募集欄で、相手に対する希望や、応募期限などの各種条件を見ることがもし出来れば、独身者にとって大きな楽しみとなる。
2011年5月12日木曜日
学習塾と国語
学習塾など、受験産業成否の鍵は、ズハリ国語にある。
生徒諸氏の学習は大まかに文科系と理科系に分かれる。文科系の主要科目は国語と社会で、理科系のそれは数学と理科だ。英語などの外国語科目は文科系と理科系で共通して求められる。
私立大学の場合、受験生が減るのを恐れる余り、受験科目はできるだけ絞ろうとする傾向があるから、この際除外して考える。そこで公立大学の受験科目が問題となる。なぜなら受験科目として文科系であっても例えば数学を課すとか、あるいは理科系であっても例えば国語を課すなどの例もあるからだ。
このうち文科系を目指す学生が数学の成績を伸ばすのは、そんなに難しいことではない。なぜなら、文科系の受験科目にふさわしい形で、数学はやさしい問題が想定されているからである。だから最初は得点が難しかった生徒でも、努力により成績を飛躍的に向上させるのは決して不可能ではない。
しかし理科系を目指す学生は事情が異なる。理科や数学で高度な水準を保つためには、時間が必要だ。そのため通常の生徒は、国語を学ぶ余力が無いというのが実情がある。しかも国語の場合、古典を含むなど、数学の場合のような易しい問題は出しにくい性質がある。
こうした事情から、文科系の学生が数学を受験するのに比べ、理科系の学生が国語を受験する場合は、受験生各自の得点の差が開く傾向にある。つまりいわゆる難関校の受験など、学習を高度化させようとすればするほど、数学や理科では得点の差が生まれにくい分、国語の出来不出来が入試の勝敗を分けることとなる。
学習塾の経営で、文科系及び理科系両方の学生を集めるに越したことは無い。そして特に理科系の受験生を多く集めるためには、国語の成績が伸びることが差別化の要となる。
その点、旧来は国語の教育は必ずしも十分だとはいえない。そもそも日本語の研究自体が、欧米における自国語研究に比べその水準は著しく低いのが現状である。だからこそその教授法も凡庸かつ限定的とならざるを得ない結果、数学のように後から急に成績が伸びるということが実現しにくいのである。
生徒諸氏の学習は大まかに文科系と理科系に分かれる。文科系の主要科目は国語と社会で、理科系のそれは数学と理科だ。英語などの外国語科目は文科系と理科系で共通して求められる。
私立大学の場合、受験生が減るのを恐れる余り、受験科目はできるだけ絞ろうとする傾向があるから、この際除外して考える。そこで公立大学の受験科目が問題となる。なぜなら受験科目として文科系であっても例えば数学を課すとか、あるいは理科系であっても例えば国語を課すなどの例もあるからだ。
このうち文科系を目指す学生が数学の成績を伸ばすのは、そんなに難しいことではない。なぜなら、文科系の受験科目にふさわしい形で、数学はやさしい問題が想定されているからである。だから最初は得点が難しかった生徒でも、努力により成績を飛躍的に向上させるのは決して不可能ではない。
しかし理科系を目指す学生は事情が異なる。理科や数学で高度な水準を保つためには、時間が必要だ。そのため通常の生徒は、国語を学ぶ余力が無いというのが実情がある。しかも国語の場合、古典を含むなど、数学の場合のような易しい問題は出しにくい性質がある。
こうした事情から、文科系の学生が数学を受験するのに比べ、理科系の学生が国語を受験する場合は、受験生各自の得点の差が開く傾向にある。つまりいわゆる難関校の受験など、学習を高度化させようとすればするほど、数学や理科では得点の差が生まれにくい分、国語の出来不出来が入試の勝敗を分けることとなる。
学習塾の経営で、文科系及び理科系両方の学生を集めるに越したことは無い。そして特に理科系の受験生を多く集めるためには、国語の成績が伸びることが差別化の要となる。
その点、旧来は国語の教育は必ずしも十分だとはいえない。そもそも日本語の研究自体が、欧米における自国語研究に比べその水準は著しく低いのが現状である。だからこそその教授法も凡庸かつ限定的とならざるを得ない結果、数学のように後から急に成績が伸びるということが実現しにくいのである。
2011年5月11日水曜日
弱者と初心者
初心者は未知の事柄に対し極度に恐れるか、又は不審を持つ傾向がある。そして既知の事柄に対し極度に侮るか、又は信じすぎたりする。子供がその典型だ。
お年よりは人生経験があるから、決して初心者ではない。だから子供と比較しても、既知の事柄を侮る傾向は薄れる。
しかし未知の事柄に関心を失ったり、あるいはそれを容易に信じなかったりする点で、初心者的傾向は残る。
これらの幼児や老人をまとめて、「弱者」と定義することもできる。
その逆の「強者」は、初めての事柄や初めての人を、極度に恐れたり不審に思ったりしない。それは知識の豊富さに裏付けられた、自己の防衛力に対する信頼が根拠となっている。そういう精神的な余裕が、他方で既知の事柄や人を極度に蔑んだりしないという、敬愛の態度をもたらす。
お年よりは人生経験があるから、決して初心者ではない。だから子供と比較しても、既知の事柄を侮る傾向は薄れる。
しかし未知の事柄に関心を失ったり、あるいはそれを容易に信じなかったりする点で、初心者的傾向は残る。
これらの幼児や老人をまとめて、「弱者」と定義することもできる。
その逆の「強者」は、初めての事柄や初めての人を、極度に恐れたり不審に思ったりしない。それは知識の豊富さに裏付けられた、自己の防衛力に対する信頼が根拠となっている。そういう精神的な余裕が、他方で既知の事柄や人を極度に蔑んだりしないという、敬愛の態度をもたらす。
2011年5月8日日曜日
2011年5月7日土曜日
日本の貨幣
日本の貨幣 (JAPANESE COIN)
十円 10 Yen
重さ 約4.5グラム≒6/5匁=6/5×五円 =5 Yen
金の密度≒19.32 g/cm3
銀の密度≒10.49 g/cm3
銅の密度≒8.96 g/cm3
鉄の密度≒7.86 g/cm3
水の密度≒0.999973 g/cm3 (3.98℃)
- 【メートル法】
- 中国秦時代の一斤(旧斤)=13金=24銀=28銅=32鉄=水九立方寸≒251 g
- 一銭=1/60旧斤≒4.18 g、 大一両=小三両=十銭≒41.8 g
- 唐目: 一斤=百六十銭、唐(新)斤=160/180旧斤≒223.1 g、唐銭=1/60新斤≒3.72 g(一匁)
- 立方寸(後漢)=水一小両=10/3唐銭≒12.4 cm3、一石=1620立方寸(規定)≒20,088 cm3
- 新一升=旧九升=1/100石×9
【Troy Weight】
1 pound(lb.t.) = 100 匁(monme) = 30 立方寸(sun3=water)
1 斤(kin) = 60 匁(monme) = 3/5 pound(lb.t.)
1 升(shou) = 16 立方寸(sun3) = 8/15 pound(lb.t.=water)
2011年5月6日金曜日
東京電力と電力自由化
東日本大震災で放射能が漏れるなど、東京電力㈱の不祥事かあきらかとなりつつある。その際、東京電力が罰として一番恐れるのは、電力の自由化だろう。
これまでは例えば関東地方の電力供給を担当するなど、各電力会社には地域を区切って独占事業を許してきた。しかし今回のように原子力発電所が停止することになれば、その地域は節電を強いられるなどの不便がある。そういう不都合を避けるためには、例えば東京の住民が北海道電力の電気を買うことができるなど、電力の自由化が不可欠だ。
旧い設備をいつまでも使い続けるという、安全軽視かつ利益第一主義で通してきた結果今回の原発事故が起きたのだから、今後も引き続き東京電力のみに東京などの大都市圏の電力供給を任せなければならない、積極的な理由は見出せない。
これまでは例えば関東地方の電力供給を担当するなど、各電力会社には地域を区切って独占事業を許してきた。しかし今回のように原子力発電所が停止することになれば、その地域は節電を強いられるなどの不便がある。そういう不都合を避けるためには、例えば東京の住民が北海道電力の電気を買うことができるなど、電力の自由化が不可欠だ。
旧い設備をいつまでも使い続けるという、安全軽視かつ利益第一主義で通してきた結果今回の原発事故が起きたのだから、今後も引き続き東京電力のみに東京などの大都市圏の電力供給を任せなければならない、積極的な理由は見出せない。
2011年5月3日火曜日
年代別議席案(再掲)
地方議会を手始めに、年代別に議席を割り振ると良い。つまり有権者の年代構成に応じる形で、80代には五議席とか、20代には八議席など、あらかじめ議員の議席数を確保しておく。もしその年代の立候補者数が議席数に満たないときはそのまま欠員とする。
従来は選挙にお金がかかるなどの諸要因により、立候補者又は当選者は、どうしてもその資金を用意できるものに偏っていた。そしてその年代は中高年で占められる現実がある。しかし議員が職責の対象とする自治体職員には、そういった年齢又は年代別の偏りは無い。こういう不都合をなくすためには、ある程度の強制力が必要である。その一環として年代別に議席を用意すると良い。
こうすることにより、「立派な政策案は持っているが、資金などが無いために立候補できないか、又は現実には当選しない」という理由で政治家を志すことをあきらめていた人、例えば若者でも、従来に比べれば競争率が低下するから、当選しやすくなる。そして議員の年齢構成の偏りも是正することができる。
議員は国民全体を幅広く代表しなければならないから、事情はどうあれ、現実に年齢構成に偏りがあることは異常と考えなければならない。こうして国民の平均的な姿勢や意見を集約してこそ、日本国憲法が想定する民主主義は実現できるのである。
従来は選挙にお金がかかるなどの諸要因により、立候補者又は当選者は、どうしてもその資金を用意できるものに偏っていた。そしてその年代は中高年で占められる現実がある。しかし議員が職責の対象とする自治体職員には、そういった年齢又は年代別の偏りは無い。こういう不都合をなくすためには、ある程度の強制力が必要である。その一環として年代別に議席を用意すると良い。
こうすることにより、「立派な政策案は持っているが、資金などが無いために立候補できないか、又は現実には当選しない」という理由で政治家を志すことをあきらめていた人、例えば若者でも、従来に比べれば競争率が低下するから、当選しやすくなる。そして議員の年齢構成の偏りも是正することができる。
議員は国民全体を幅広く代表しなければならないから、事情はどうあれ、現実に年齢構成に偏りがあることは異常と考えなければならない。こうして国民の平均的な姿勢や意見を集約してこそ、日本国憲法が想定する民主主義は実現できるのである。
駄目な政治家は駄目な有権者が作る(憲法記念日)
愛想ばかりが優先し、その半面で有力な政策を持たない政治家が、駄目政治家の代表だと言えるだろう。そうした駄目政治家は、実は有権者が作っている。
政治家は得票数が少なければ当選しない。その得票のために、立候補者は選挙の前後を通じて、お世話になった者などへのあいさつ回りやお礼の電話をかけることを欠かすことができない。なぜならその候補者に一票を投じた有権者が、もし挨拶が無ければ納得しないからである。しかしそのようなあいさつ回りや電話をかけることには、当たり前だが費用がかかる。結局、そういう費用をかけられる者、言い換えるなら資金を持つものしか当選しにくいという現実が、選挙には少なからずある。
このようにして、「選挙にはとかくお金がかかる」という悲劇が形成されてゆく。極端な場合、「政策は二の次で、挨拶などの愛想が良いかどうかが、選択の基準だ」と嘯く有権者も、決して少なくないはずだ。このような中、立候補者は当選後に、様々な手段によってその要した費用を回収しようとする。その手段の中に利権、すなちわ特定の有権者のために利益誘導することによって、金銭の対価を得るという行動がある。
これらをまとめると、貴族や豪族あるいは名士など、有力な有権者であればあるほど面子が強いから、立候補者に挨拶又は愛想を求めるようになる。そして当選後に立候補者が、その有力有権者の利便を図る。そのような貴族による、貴族のための政治がまかり通る結果となる。
有権者が「政策に感心して、その候補者に投票したのだから、別に挨拶など来なくても構わない」という意識を持たなければ、お金のかかる選挙は永遠に繰り返される。そして浮動票など、有力でない有権者に「どうせ、誰が当選しても変わらない」と感じさせることになる。
それだけではなく、下手をすると、「政治家としての政策案、つまり資質は無いのに、愛想だけは一流だから連続当選する」という、理想とはかけ離れた政治家を再生産する現実をも生みかねない。
歴史と伝統には誇るべき一面がある。しかし他方で、歴史と伝統は貴族政治を生む素地があるという欠点も、充分に認識しなければならない。日本国憲法に言う「民主主義」とは、極論すれば非貴族もしくは貧困層中心主義のことなのである。政治家は名も無き貧困層の家僕であるべきで、決して名士の家僕であってはならない。表面的には投資家や資産家の僚友を装うとしても、その本質は、如何にして投資を道徳的な経営者(商人)の育成に役立たせるかに苦心するようでなければならない。
政治家は得票数が少なければ当選しない。その得票のために、立候補者は選挙の前後を通じて、お世話になった者などへのあいさつ回りやお礼の電話をかけることを欠かすことができない。なぜならその候補者に一票を投じた有権者が、もし挨拶が無ければ納得しないからである。しかしそのようなあいさつ回りや電話をかけることには、当たり前だが費用がかかる。結局、そういう費用をかけられる者、言い換えるなら資金を持つものしか当選しにくいという現実が、選挙には少なからずある。
このようにして、「選挙にはとかくお金がかかる」という悲劇が形成されてゆく。極端な場合、「政策は二の次で、挨拶などの愛想が良いかどうかが、選択の基準だ」と嘯く有権者も、決して少なくないはずだ。このような中、立候補者は当選後に、様々な手段によってその要した費用を回収しようとする。その手段の中に利権、すなちわ特定の有権者のために利益誘導することによって、金銭の対価を得るという行動がある。
これらをまとめると、貴族や豪族あるいは名士など、有力な有権者であればあるほど面子が強いから、立候補者に挨拶又は愛想を求めるようになる。そして当選後に立候補者が、その有力有権者の利便を図る。そのような貴族による、貴族のための政治がまかり通る結果となる。
有権者が「政策に感心して、その候補者に投票したのだから、別に挨拶など来なくても構わない」という意識を持たなければ、お金のかかる選挙は永遠に繰り返される。そして浮動票など、有力でない有権者に「どうせ、誰が当選しても変わらない」と感じさせることになる。
それだけではなく、下手をすると、「政治家としての政策案、つまり資質は無いのに、愛想だけは一流だから連続当選する」という、理想とはかけ離れた政治家を再生産する現実をも生みかねない。
歴史と伝統には誇るべき一面がある。しかし他方で、歴史と伝統は貴族政治を生む素地があるという欠点も、充分に認識しなければならない。日本国憲法に言う「民主主義」とは、極論すれば非貴族もしくは貧困層中心主義のことなのである。政治家は名も無き貧困層の家僕であるべきで、決して名士の家僕であってはならない。表面的には投資家や資産家の僚友を装うとしても、その本質は、如何にして投資を道徳的な経営者(商人)の育成に役立たせるかに苦心するようでなければならない。
2011年5月2日月曜日
銀行店舗営業規制案
元来、規制の強化には反対の立場だ。
しかし銀行、保険、証券などが百万都市を含む目抜き通り(メイン・ストリート)の建物の一階で堂々と営業している姿には、違和感を感じると同時に目を覆わざるを得ない。
銀行、保険、証券などの金融業は、本来恥ずかしい業態である。だから立地条件の良い場所については、むしろ商店などの金融業以外の店舗に譲るのが理想であると同時に原則的であるべきだろう。
しかし目下、目抜き通りのビルの一階は銀行などで占められていて、その分例えば洋服のお店などが開店できない現状がある。これは放置していては改まることは無いだろう。
そこで、法律にお出まし頂かなければならない。すなわち金融業については、これをビルの二階以上でなければ開設できないこととする。そうすることにより、金融業以外の店舗を一階に開店し易くなるから、街も活気付くに違いない。そして「ウィンドウ・ショッピング」という言葉も現実味を増す。
これまでのように金融業が建物の一階で営業しているその景観は、単に街の活気を奪うだけではなく、殺風景であり、なおかつ美的感覚からも見苦しいというべきだろう。
しかし銀行、保険、証券などが百万都市を含む目抜き通り(メイン・ストリート)の建物の一階で堂々と営業している姿には、違和感を感じると同時に目を覆わざるを得ない。
銀行、保険、証券などの金融業は、本来恥ずかしい業態である。だから立地条件の良い場所については、むしろ商店などの金融業以外の店舗に譲るのが理想であると同時に原則的であるべきだろう。
しかし目下、目抜き通りのビルの一階は銀行などで占められていて、その分例えば洋服のお店などが開店できない現状がある。これは放置していては改まることは無いだろう。
そこで、法律にお出まし頂かなければならない。すなわち金融業については、これをビルの二階以上でなければ開設できないこととする。そうすることにより、金融業以外の店舗を一階に開店し易くなるから、街も活気付くに違いない。そして「ウィンドウ・ショッピング」という言葉も現実味を増す。
これまでのように金融業が建物の一階で営業しているその景観は、単に街の活気を奪うだけではなく、殺風景であり、なおかつ美的感覚からも見苦しいというべきだろう。
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