2011年5月3日火曜日
駄目な政治家は駄目な有権者が作る(憲法記念日)
政治家は得票数が少なければ当選しない。その得票のために、立候補者は選挙の前後を通じて、お世話になった者などへのあいさつ回りやお礼の電話をかけることを欠かすことができない。なぜならその候補者に一票を投じた有権者が、もし挨拶が無ければ納得しないからである。しかしそのようなあいさつ回りや電話をかけることには、当たり前だが費用がかかる。結局、そういう費用をかけられる者、言い換えるなら資金を持つものしか当選しにくいという現実が、選挙には少なからずある。
このようにして、「選挙にはとかくお金がかかる」という悲劇が形成されてゆく。極端な場合、「政策は二の次で、挨拶などの愛想が良いかどうかが、選択の基準だ」と嘯く有権者も、決して少なくないはずだ。このような中、立候補者は当選後に、様々な手段によってその要した費用を回収しようとする。その手段の中に利権、すなちわ特定の有権者のために利益誘導することによって、金銭の対価を得るという行動がある。
これらをまとめると、貴族や豪族あるいは名士など、有力な有権者であればあるほど面子が強いから、立候補者に挨拶又は愛想を求めるようになる。そして当選後に立候補者が、その有力有権者の利便を図る。そのような貴族による、貴族のための政治がまかり通る結果となる。
有権者が「政策に感心して、その候補者に投票したのだから、別に挨拶など来なくても構わない」という意識を持たなければ、お金のかかる選挙は永遠に繰り返される。そして浮動票など、有力でない有権者に「どうせ、誰が当選しても変わらない」と感じさせることになる。
それだけではなく、下手をすると、「政治家としての政策案、つまり資質は無いのに、愛想だけは一流だから連続当選する」という、理想とはかけ離れた政治家を再生産する現実をも生みかねない。
歴史と伝統には誇るべき一面がある。しかし他方で、歴史と伝統は貴族政治を生む素地があるという欠点も、充分に認識しなければならない。日本国憲法に言う「民主主義」とは、極論すれば非貴族もしくは貧困層中心主義のことなのである。政治家は名も無き貧困層の家僕であるべきで、決して名士の家僕であってはならない。表面的には投資家や資産家の僚友を装うとしても、その本質は、如何にして投資を道徳的な経営者(商人)の育成に役立たせるかに苦心するようでなければならない。
2011年5月2日月曜日
銀行店舗営業規制案
しかし銀行、保険、証券などが百万都市を含む目抜き通り(メイン・ストリート)の建物の一階で堂々と営業している姿には、違和感を感じると同時に目を覆わざるを得ない。
銀行、保険、証券などの金融業は、本来恥ずかしい業態である。だから立地条件の良い場所については、むしろ商店などの金融業以外の店舗に譲るのが理想であると同時に原則的であるべきだろう。
しかし目下、目抜き通りのビルの一階は銀行などで占められていて、その分例えば洋服のお店などが開店できない現状がある。これは放置していては改まることは無いだろう。
そこで、法律にお出まし頂かなければならない。すなわち金融業については、これをビルの二階以上でなければ開設できないこととする。そうすることにより、金融業以外の店舗を一階に開店し易くなるから、街も活気付くに違いない。そして「ウィンドウ・ショッピング」という言葉も現実味を増す。
これまでのように金融業が建物の一階で営業しているその景観は、単に街の活気を奪うだけではなく、殺風景であり、なおかつ美的感覚からも見苦しいというべきだろう。
2011年4月29日金曜日
2011年4月21日木曜日
2011年4月19日火曜日
石原東京都知事の経済構想
2011年4月18日月曜日
2011年4月16日土曜日
マイケル・サンデル(教授)出演
米国大学教授のサンデル氏がTV出演して色々な議論をしている。この人の議論のキー・ワードは常に「市場原理主義」である。これはカトリック主義か、それともプロテスタントかということだ。
カトリックは中世の修道院が出発点となっており、「晴耕雨読」の聖職者中心主義だった。ようするに商人などのビジネスマンよりも、清貧を旨とする学術者を上位におく考え方だ。インドも似たような社会である。
ところが商人中心のイスラームやプロテスタントは、金融を容認する程度に違いがありつつも、学術よりも実務のほうに重きを置いた。そして利益の独占を目論む各商人を、どうやって弱者に対する配慮、すなわち道徳的であらせ続けるかが、資本主義、つまり金融中心主義の課題とされた。 銀行などの間接的投資家や、株主などの直接的投資家が果たして道徳的な経営者を育てることができるかが、資本主義の壮大な実験の成否の鍵を握る。このためカトリックは総じて工業化には反意的だ。
ただし人間の利便性や快適性に対する希求は、カトリック勢力の想像をはるかに超えて強い。そういう前提に立てば、資本主義を貫徹させるための完全競争原理を確立するしか、最大の幸福を人々に与えることはできないことは、すでに答えは出ている。その証拠に、決して飢えるわけでもないのに、人間は豊かな大地を巡って壮絶な殺し合いを繰り広げてきた。つまり豊かさのためには命をもかけた。その他に自由や信念、貞節などを守るため「死んだほうがましだ」ということで、命を落とす者は意外に多い。つまり身を投げたり、命の危険を冒して戦う。たとえどれほど多くの犠牲者が出ようとも、一度手にした自動車、航空機や刃物及び拳銃は二度と廃棄しようとはしない。核分裂が有効な発熱源又は動力源であると知るや、たとえどれほど危険でも、二度と放射線物質を捨てようとはしないだろう。
人間の経緯は、「ただ生きてさえいればそれでよい」という動物的感覚から離反する歴史だった。それを文化化と呼ぶべきかどうかはともかく、「命よりも重い価値を、無限に増やしてゆく」過程であることは間違いない。 そういう、「命よりも重い価値」のうちにもし物質が含まれているとすれば、市場原理主義と道徳との宥和は、決して不可能ではない。
都知事選候補者渡辺美樹氏
今年度の東京都知事選に、居酒屋チェーン創業者の渡辺美樹氏が立候補した。彼は言うまでも無くビジネスマンであり、商人の一種だ。それで「東京を経営する」との政治方針を打ち出した。
しかし商人の原理と政治の原理は、対照的ともいえるほど異なる。渡辺氏はサービス業を成功させたから、「自分には人気がある」と感じたのかも知れない。しかし商人は本来的に利益の独占を目論む存在だから、原理的に人気があるなどといったことは無い。それを渡辺氏だけではなく各商人は心得なければならない。商人にはそういう原罪とも言うべき性質があるからこそ、ご愛顧いただくという精神が忘れられてはならないだけではなく、義務感として還元を忘れてはならない。
他方で政治家は敬愛されるべき存在だ。なぜなら集積された税と公務員の頭脳を、如何にして弱く貧しい人たちのために活用するかが、普通選挙、すなわち一人一票の参政権が与えられる中での責務となるからである。そういう職責を忘れるものは、当然ながら次期選挙で落選する。選挙権が頭数によって与えられる民主主義では、貧しいものや弱い者の頭数が多い関係で、政治家は貧しい者や弱い者のことを配慮しなくては当選しない仕組みがある。
このように、政治家と商人は原理的に相容れないことが分かる。繁盛した商店主が「俺は人気がある」と断定するのは実は虚構に過ぎない。顧客を欺き、取引先を欺き、労働者を欺き、出資者を欺いた結果として経営者の手元に貨幣が残るというのが、商取引の実態に他ならない。その証拠に、相手に原価を告げて取引する商人が利益を出したためしがない。
むかし江戸時代を背景とした「ネズミ小僧」という劇作があった。その主人公のネズミ小僧は常に大商人からその有り余る貨幣を盗んでは、貧しい人々に分け与えた。それで人々から英雄視された。これを言わば合法的に行うのが政治なのである。
商人は"半騙し"が上手いからこそ成功する。それを決して「敬服されている証拠だ」などと間違っても思ってはならない。
