2009年12月1日火曜日

検察民営化論

一般の国民が刑事裁判に参加する裁判員制度が始まった。しかしその裁判員の中には被告人を非難することに力点を置く者も少なくない。これは刑事被告人は審理を終えるまでは無罪が推定されるという原則についての理解が不足していることと関係があるだろう。
こういう事態を防ぐためには、検察を民営化すると良い。

日本は有罪率、すなわち有罪認定される事件数の、起訴された事件数に対する割合が限りなく百パーセントに近い。これは検察が闇雲又は無鉄砲に起訴したりしないで、事件をよく吟味してから起訴した結果に他ならない。要するにそこにはやたらと起訴をして、被告人が無駄に勾留されるのを防ぐという、検察の配慮が働いている。その意味で日本の検察は優秀だと言える。

しかしそうだからこそ、刑事法廷での審理は形式的又は儀式的なものに過ぎなくなっている。たとえ被告が起訴事実を否認したとしても、裁判官の内心で”検察が起訴したのだから、やったに違いない”と思わせるなどの不都合が生じる。そういう不都合の延長線上に上記のような裁判員による被告人への非難がある。そして挙げ句の果ては法廷が審理の場所から、被告人に反省を促すなどの説教の場と化している。

仮に検察を民営化して、全犯罪に対する起訴の率が例え変わらないとしても、相手が民営組織だと言うことになれば、裁判員を含めた裁判所は、どうしてもその民営化された検察を従来よりも疑ってかかるようになる。しかしそれこそが刑事裁判の本来あるべき姿なのだ。なぜなら刑事裁判は検察の提示した証拠が、犯罪事実を証明できるのかや、証明できるとして、証拠の集め方が法律、すなわち刑事訴訟法に則っているかを審理する正にその場所だからである。

岡本英三(冈本英三)
Okamoto Eizo